◇庭園の見どころ
豫園商城を中庭のような場所に、緑波池という蓮の池があり池の中に建っている2階建ての東屋は池の真ん中にあることから湖心亭と呼ばれる。
400年前に最初の建て物が建てられたがその後損壊したため、現在の建物は1784年に再建されたものとされる。
現在この湖心亭の建物の中は茶飲み処になっているが、高級なお茶を使っているため、値段は高め。
◇九曲亭
緑波池にジグザグにかかっている橋は九曲橋と呼ばれ湖心亭もこの途中にある。この九曲橋は石の橋であったが、1932年に鉄筋コンクリート製に架け替えられた。
橋がジグザグになっている理由は、人間は道なりに歩けるが、悪霊は真っ直ぐにしか進めないので悪霊を寄せ付けないためだと言われる。
その他、見た目や景色を見る角度が何度も変わることからともいわれる。
曲がる回数が九回であるのは、九は一桁の数の中で一番大きいので規模が大きいという意味になるようだ。
三稲堂
最初の門をくぐってまず正面にあるのが三稲堂である。三稲堂とは五穀豊穣祈念して付けられた名で、扉には、稲、麦、黍、瓜類の浮き彫りが彫られている。
当初は楽寿堂の名で呼ばれたが、1760年に再建された際に名前も現在のものに変えられたようだ。
豫園の中でも最も古い時代に建てられた建物のうちの一つであり、釘を1本も使わない建築物としても知られている。
屋根の上には、右側には張飛、左側には関羽の像がある。三稲堂の内部正面には3つの額がかけられているが、これは豫園の所有者が何度か代わったことを示す。
現在一番上には「城市山林」と書かれており、城市とは都市のことであり、すなわち「豫園は都市のなかの山林(自然)だ」という意味がこめられている。
真ん中に書かれている「霊台経始」の文字は「祖先の霊に対し、崇拝を始める」といった意味となっている。
正面には豫園の最初にこの庭園を建てた潘允瑞が残したとされる豫園記があり、豫園創建時の経緯が詳しく書かれている。
仰山堂
三稲堂の奥にあるのは1866年に建てられた仰山堂で、その名の通り池を隔てて筑山が望めるお堂になっている。
ここの築山は張南陽という当時の造山の大家の作で、高さ12米を越える巨大なもので、上海から遠く200キロも離れた浙江省武康県から運びだした武康石を2000トン分も積み重ねられ作られている。
各時代で園内の建物が何度も再建を繰り返す中で、この築山だけは一部が削られただけで創建当時の姿をほぼ完全に今も留めている。
この築山の山上の望江亭という東屋があるが、豫園が作られた400年前は、ここが上海で一番高い場所であり、黄浦江が望めたと言われる。
獅子像
仰山堂の脇に鉄製の雌雄一対の獅子像があるが、これは元代に河北省安陽県で作られたものとされる。子供をあやしているのが雌で毬で遊んでいるのが雄。この獅子像から三稲堂と仰山堂の間を見ると、瓶の形をした門が二重に見え、更に奥には木が見え、空間が面白く演出されている。
遊廊
獅子像の先には遊廊と呼ばれる回廊があり、この遊廊からは右手に山水画のような筑山が見え、左手には風俗画のように東屋、池などの景色が広がる。
回廊の中ほどに、大きな太湖石が置かれ、美人腰と名づけられる。更に奥に進むと藤棚があり、左手の壁に200年前に作られた彫刻が掛けられ、背が低く髭を生やし、杖をつく老人は人間の寿命を司るといわれる寿老人で、その上が観音菩薩、右が中国仏教の開祖と言われる達麿大師である。
中国の庭園においては建物と建物を結ぶ廊下は単なる通り道として存在するだけでなく、庭全体が回廊から見ても美しいように構成されており、景色を楽しむポイントともなっている。
藤棚の先を右に曲がると右手に魚楽榭という東屋があり、ここから東に流れる渓流が洞窟にでも注ぎ込むように見え景観に変化をもたらしている。昔はここで男女のお見合いが行われたとされ、いずれか片方がここに座って前方の廊下を歩いてくる相手を待ったそうだ。
複廊
次に複廊と呼ばれる平行する廊下があり、向かって右側が男廊下で天井が高く作りも良く、太湖石の庭と渓流を望める。
左側の女廊下は位置が低く板張りの天井であり庭もよくみえない。
両廊下を隔てる壁には様々の形の穴が開けられ、各々の窓から違う景色を楽しむという工夫となっている。
万花楼
廊下を抜けた先の左手の建物は、万花楼で1843年に再建された。この建物の扉や窓には、竹、蘭、菊などの彫刻が施されていて、「花でいっぱいである」という意味の万花楼となったと推測される。
万花楼内部に置かれるの家具は200年以上の歴史を持つとされ、庭に立つ銀杏の木は樹齢は400年を超えることから豫園設立当初からあるとされる。
点春堂
花糖飴業の公所として1820年に建てられたのが点春堂で、1853年に発生した太平天国の乱に呼応して武装蜂起した小刀会が本部を置いたのがここだった。
小刀会の武装蜂起失敗の後に点春堂は破壊されたが1868年に再建された。点春堂正面の小さな舞台で劇が上演されたなど当時は宴会会場や観劇用に使われ、現在は小刀会関係の資料が展示されている。
点春堂と万花楼の間の壁上部は龍で装飾されている。
龍はもちろん想像上の動物であり、よく見れば、頭は牛、角は鹿、口は馬、爪は鷹、身体は蛇、鱗は魚に似ている。口には玉をくわえている。龍は玉がよほど大好きで、玉をくわえた龍はよだれを垂らしてしまう。そのよだれを喉元の蛙が待ち受けている。龍は皇帝の象徴であり、臣下は龍の装飾を用いることが禁じられていた。しかし本来龍の爪は5本であるのに対しここの龍は4本爪となっている。豫園の持ち主は、咎められたときは「これは4本爪であり龍ではない」と答えたと言われる。
和煦堂
点春堂の南側にあるの和煦堂には、いずれも200年前に作られた榕樹の家具が置かれている。左右の置物は、左が麒麟、右が鳳凰である。
和煦堂西脇の門の上部には、二匹の龍が大きな真珠の玉を嬉しそうに争っている。門を通りすぐ右手の壁には、松、鹿、粟鼠、鶴が描かれた彫刻がある。いずれの動物も健康と長生きを象徴するものである。さらに南に進むと、広々としたそれまでとは違った雰囲気の庭園に出る。
内園
1780年に豫園に隣接する城隍廟(県の鎮守神を祭る官廟)の後庭として建設されたのが内園でが、1956年に豫園と併合された。
豫園が明代の庭園の雰囲気を持つのに対し、内園は清代の雰囲気を持っている。
静観庁は「静かに築山を見る場所」という意味である。正面の太湖石の築山の石は、獅子、猿、象などいろいろな動物に似ているとされている。静観庁の屋根には宋の名将岳飛と悪徳役人の金兀術が戦っている像が置かれている。
静観庁の西にある東屋前にある彫刻は「郭子儀上寿」と呼ばれる。郭子儀は唐代の玄宗皇帝の時代の名将で、福、禄、寿の象徴とされている。
ここから築山に登ると、園内5匹目の龍に会うことができる。この龍は他が瓦でできているのに対し、煉瓦で彫刻されている。
内園の最も奥には古戯台と呼ばれる舞台がある。